『氷菓』1話を中心に武本康弘監督の演出を考える

最近、武本康弘監督の絵コンテ・演出回をたくさん観ました。須く満足感のあるフィルムで、何が"そう"させているのか、この機会に考えてみたいと思ったわけです。

 

氷菓

第一話 「伝統ある古典部の再生」

脚本:賀東招二
絵コンテ・演出:武本康弘
作画監督西屋太志
作画監督補佐:内藤直

 

今回は個人的に気になった2つの要素からみていきたいと思います。

 3人(以上)を描くということについて

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誰が話の中心にいるのか。それぞれの人間関係を踏まえた上で、人物をどのように切り取るのか。「人をどのように配置するか」も大切ですが、「カメラをどのように置くか」という意識が中心にあるような気がします。3人以上が(一定の秩序を前提に)話す際は、基本的に2(聞き手):1(話し手)となる上で、その文脈と関係性を的確に表す画を考える必要があるというのはなんと難しいことかと考えさせられます。

 

氷菓』1話においては、基本的に奉太郎、える、里志の3人が主な登場人物になります。この3人だけでも様々な関係性を考えることができます。

①文芸部室で話していた2人(奉太郎、える):やってきた1人(里志)

②もともと友人の2人(奉太郎、里志):初めて会った1人(える)

③帰ろうとする人と引き止める人(奉太郎、える):蚊帳の外(里志)

④謎解きする1人(奉太郎):見守る2人(える、里志)

⑤文芸部(える):そうじゃない2人(奉太郎、里志)

⑥同じクラスの2人(奉太郎、里志):違うクラス(える)

⑦説明をする側と受ける側(える、里志):他のことを考えている(奉太郎)

など

 

そして、その意識の徹底はコンテ・演出としてのデビュー時からみられるように感じます。

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 『ゲートキーパーズ』第4話「新たな戦士を探せ!」

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ジャングルはいつもハレのちグゥ』第24話「ご休憩」

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 『涼宮ハルヒの憂鬱』第8話「笹の葉ラプソディ

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↑そっくり(『たまこマーケット』第8話「ニワトリだとは言わせねぇ」)

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境界の彼方』第2話「群青」

 

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レイヤー構造的に奥行きを持たせて、という形もみられます。

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涼宮ハルヒの憂鬱』第27話「射手座の日

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境界の彼方』第2話「群青」

局所UPの使い方について

京都アニメーション作品の特徴で思い浮かべるものといえば、手だとか足のCUカットが所々に挟まってテンポを生んでいる感じというんでしょうか。ぼんやりそんなイメージがあります。

実際『氷菓』1話でもよく観られ、その用途は大体次のように分けられるのではないかと考えてみました。

 

①予想外・印象づけたい行動

②場面転換(①に近いかも…)

③心情描写

 

①予想外・印象づけたい行動

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古典部に入るといったのにそそくさと帰ろうとする奉太郎という「予想外」。(少し時間飛んでる)

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えるの「何か」に圧倒される奉太郎。

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つい渡してしまったという「予想外」。

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ネタバラシ的用法。

 

②場面転換

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 場面転換は大きく分ければ、全景(引き)→ディテール(寄り)か、その逆かというパターン。比率的にはこの話数で言えば、後者の方が多かったかなと思います。

 

③心情描写

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AIR』6話での手を隠すという演技。

 

おそらくこのように、何らかの目的に沿った局所的なカットを用いることで結果としてリズムが生まれているのではないでしょうか。



氷菓』1話で描きたかったもの

武本監督は『AIR』第3巻のコメンタリーにてこのように仰っていました。

「結局、演出でもコンテでもそうなんだけど、ポイント絞らないとぼやけちゃうんだよな。印象が散漫になって。ある一つの着地点に向かって、作品をつくる。」

 ここまで「3人以上の描き方」だとか「局所UPの使い方」だとかを語ってきたわけですが、やはり『氷菓』1話における「着地点」は「奉太郎とえるとの出会い」にあったと鮮明にイメージづけられています。「魅了」や「吸い込まれる」というイメージと共に。

そして、この言葉を聞いて自分はすぐ、『涼宮ハルヒの消失』でキョンが自分自身に語りかけるシーンを思い浮かべました。(あと屋上のシーン)「公式ガイドブック 涼宮ハルヒの消失」にて武本監督は「『消失』は『キョンの再認識の物語』なんです」と語っています。

思えば、自分はそんな「着地点」が見えるような作品が好きなのかもしれないと感じます。『消失』はもちろん、『パト2』のラストシーンや『プラネテス』7話、『エウレカ』26話、『CLANNAD 智代アフター』だったり。良い作品はいつも強い印象(着地点)と共にあります。

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武本監督の演出には、細部のみでなく、俯瞰的な視点から話数全体を見渡した際の、その意識が根底に流れていることを感じています。

 

最後に

武本監督「らしさ」を探しに出たものの、これだ!というものを自分の目では見定められなかったように思えます。おこがましいですね。

しかし、いつも面白いと思える「何か」をくれる作品作りを想うと、自分の中のセオリーに囚われすぎず、何が視聴者を楽しませるのかについて常に頭を悩ませてきたのではないかということが、

www.youtube.com

動画(4:00あたり)の「足りない、もっともっと頑張らないと届かないよ」と語る姿と共に浮かんでくるようです。

 

再度折に触れて見直したい、『AIR』DVD3巻コメンタリーでの印象的な言葉をここに書き起こしておきます。

 

「やっぱり思いの強さとかね、そういったものは具体的に悩んでいる時間を、観ている人と、例えば中の演技者とリンクさせてあげる、なるべく同じ時間を過ごさせてあげる。時間の積み上げっていうところが思い入れの強さに繋がっていくのではないかと個人的に感じていて、そこになるべく時間をとって、他のところは省略する。お母さんに会いに行くというところで、美凪の中にある葛藤を、観ている人が画面の中と共有できればいいなと。その時間をリンクさせるためになるべくこう、時間を長くとって、ここに向けて6話Aパートのコンテは全てあるという(笑)。」